昆布の歴史
万葉の昔より、海に囲まれたこの国では、海藻も貴重な栄養源として親しまれていました。中でも昆布は別格で、薬として珍重されていたようです。また、昆布は八世紀頃には既に租税対象に指定されていたようであることも指摘されています。
時はくだり、華やかな王朝文化の花開いた平安時代。当時の百科事典ともいうべき『倭名類聚抄』には、食用藻類として二〇余種が挙げられていますが、その筆頭は昆布。昆布が「薬」から「食品」として、その地位を既に確立していたことの表象であるといえましょう。しかし未だ、昆布は宮中・貴族・寺社など、特権階級の食べ物でありました。
中世以降、昆布は徐々に人々の生活に浸透していきます。まず、台頭著しかった武士が、糧食として用いています。これは、昆布が携帯性・保存性に優れていたことに加え、「打ち、勝ち、よろこぶ」の縁起物として好まれたせいでもあるようです。
また、仏教行事の際、精進料理に利用される食材として、あるいは当時流行だった茶席に出される点心や菓子として、昆布は一部民間にも、その姿をあらわし始めました。しかしこれはあくまでも非日常・ハレの日の食べ物であって、一般人が日常的に昆布を口にすることは無かったと思われます。
昆布が、一気に人口に膾炙したのは江戸時代。一八世紀、西回り航路が開かれ、蝦夷地・東北から大坂まで、大量に・安く・早く・安全に、物資を輸送することが可能となりました。北海道と上方を往復しながら物資の売買をする船は北前船と呼ばれ、以降、明治の半ばまで隆盛を誇ることとなります。これより、昆布は安価で求められる食材となり、庶民の食卓にものぼるようになったのです。
敦賀と昆布のかかわり
当初、北海道と畿内を結ぶルートは、海路で小浜・敦賀に至り、そこから琵琶湖を渡るというものでした。
中継地点である敦賀では、昆布加工業が早くから盛んになりました。船便から陸便への中継地で加工して重量を減らすことで、運搬の簡便さを求めたため、また、原藻を加工することで付加価値をたかめるためといわれています。北海道から下関を経由して、海路のみで大坂に至る西回り航路が開通した後、敦賀港に水揚げされる昆布の量はやや減ったものの、激減することはありませんでした。敦賀の昆布業者の加工技術が、上方のそれとくらべてなんら遜色ない、もしくはそれ以上に洗練されたものであったという証ではないでしょうか。
維新の陰で/コンブロード
一八世紀頃より、薩摩藩が琉球王国を通じ、清国と密かに交易をはじめます。交易品目の中には、北前船の活躍により九州でも入手可能になった昆布もありました。薩摩藩は越中の薬売り達と手を結び、昆布をはじめとする様々な物産と引き換えに、当時日本では入手が難しかった高貴薬などを手に入れ、高値で売りさばいていたようです。その差益がのちに、維新の原動力となったともいわれています。
最終的に北海道から中国大陸まで伸びることになる、この海・陸の輸送路を総称して「コンブロード」とよびます。時代の変遷と共に変わる昆布の道は、その時代を的確に映しとっているようでまことに感慨深いといえましょう。
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